どこかで、””書かなくてはならない””とどこかで感じてしまっている自分がいた。
そう思えば思うほど、正解を探してしまい、何も書けない自分がいた。
アーティストの歌詞で、「自分の書きたいことが分からないから、その葛藤している自分の心情をそのまま歌詞にしちゃいました」みたいな歌詞が昔から大嫌いだ。
それだったら書くなよ…。
結局は生活のために、締め切りのために、絞り出しただけじゃん…。
そう思っている考えは、今でも変わらない。
それ故、自分の発信することに関しても、定期的にこれくらい書かないと、というのはとても嫌いだ。
元々、世の中の真理に到達するために書き始めたことなのだ。
書きたいことがない、ということは、それだけ希薄な日常を送っている、という事なのかもしれない。
希薄な日常を送っている中でも、学びは常にある。
それは資本主義社会の中でどう勝ち残っていくか、とか、自分を殺して上司とうまく立ち回っていくにはどうしたらいいか、とか、年収が上がって欲しいものを買えるようになったなとか、そういう死ぬほどどうでもいいことではない。
希薄な日常を送ってしまう、人間の性質、本能、体たらくな動物性、そういったものが、自分にも降りかかってくるという事実。
俗世に流され、誘惑に負け、まんまと感情的になり、最後は後悔する、そういう愚かな流れ。
その中で、生まれて生きて死ぬとは、つまりはどういう事なのか、を体感しながら考えるという、体験型アトラクション。
自分は特別でもなんでもなく、ただの人間という動物の1つの個体でしかない、という事を受け入れる練習。
そんな意味のある時間だった。
最近思うことがある。
水の流れたところが川になるのである。
何を当たり前のことを言っているんだ、という話だが。
最初から正解など、ないのではないか?
何かをやっていく中で、正解に導かれていくのだ。
正解が分からない、というのは、水を垂らすことなく、どのような川が形成されるか、当てようとしているようなものなのではないか?
失敗はないのである。
水を垂らし、時間をかけて、川が創られる。
人の人生も、同じようなものだ。
どんな川が創られようとも、最後は海に向かって流れていく。
川が創られず、いきなり海に行くことはない。
その川の形に正解も失敗(不正解)もなく、そのものが人生ではないだろうか。
そんなことに少し気づくことができたから、この希薄な時間も、やっぱり無駄ではなかったんだな、と思った。